新学期は中島みゆきから 2015.10.13

震災後、災害対策会議や校長会が連日開かれ、町の方針が話し合われていた。
目的地が決められれば、そこに向かう道を作らなければならない。
町が壊滅状態なのにも関わらず、新学期は例年通りの日程でスタートすることになり、春休みはその準備に追われた。
ガレキの中を徒歩で通学することは不可能だったので、バス通学となった。どこにバス停を設けるか検討した。だいたい、生徒が今どこに住んでいて、どんな状態なのか、把握するだけでたいへんだった。地元の〇藤先生などは、情報を求めて、毎日町内をかけずり回っていた気がする。
                      
23年度の女川第一中学校は、もともと各学年3学級でスタートするはずだったが、転出生徒数によっては2学級になるかもしれないとのことで、クラス編成や教員の分担も二種類準備された。女川二中、女川一小も同じ校舎を使うことになったので、教室の割り当ても何種類も考えた。
教務主任の私は時間割編成という(苦手な)仕事があって、前年も苦しんでいたのだが、23年度は、春休み中に二種類の時間割を作った。
あらゆる紙類を焚き火に使ってしまい、コピー用紙もほとんどなかったし、書店に届いていた教科書もすべて流された。
〇海先生が「鉛筆、消しゴムをこれに入れてください」と職員室中の文房具を段ボール箱に集め始めた。
その後、三重県のNPOが「きぼうの鉛筆」というプロジェクトを立ち上げてくださり、各地から文房具が贈られてきた。ユニセフからは学用品セットが届き、入学式で贈呈式が行われた。ほんとうに多くの方々の善意によって、着実に準備が進み、新学期が始まろうとしていた。

教科書も間に合った。
しかし、今だから言うが、私は内心「教科書は間に合わないでほしい」と思っていた。正確に言うと「3年生の国語の教科書」は配ってほしくなかった。
3年生の国語の教科書の最初の教材は、中島みゆきの「永久欠番」だと知っていたからだ。

最初のフレーズは「どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする」
真新しい教科書を開いて最初に目にするのが「この世におさらば」だなんて…。
例年、中島みゆきについて熱く語った後、「『この世におさらばをする』ってどういうこと?」と聞くと「死ぬこと」と生徒はすぐに答えていた。
10人に一人が津波の犠牲となった町の学校で、そんな授業はできない。かといって1ページ目から飛ばして次に進むのも変だ。

中島みゆきさんは、私にどういう授業にしろというのか。何度も何度も詩を読んで、曲も聴いた。
春休みがもうすぐ終わろうとしていた。

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平成23年4月、国語の教科書の最初の教材、中島みゆきの「永久欠番」の授業をどうするか。私は悩んでいた。去年も一昨年も教科書はこの詩から始まったが、今年は事情が事情だ。

「一人一人はかけがえのない存在なんだよ」と言ってくれているのはよく分かる。しかし「街は回っていく 人一人消えた日も」「かけがえのないものなどないと風は吹く」「代わりなどいくらでもあるだろう」…、どう考えても、被災地の新学期に目にしたくないフレーズだよなぁ。でも、じゃあ「夢」「希望」みたいなキラキラした言葉を並べるのいいかというと、それは違うと思った。

誰もが一度は、生きていてなんの意味があるのかと考えるもの。ましてや、傍らで多くの命が一瞬にして消えていった私たちに、この詩の言葉はすごくリアルだった。この状況でこそ聴いて、歌うべき歌ではないか。
当初、よりによってなんでこんな歌詞を書いたんだと中島みゆきを逆恨みしていたのだが、授業が始まる頃には、よくぞこの曲を作ってくださったと思うようになった。

どう読むかは生徒に委ねよう、中島みゆきさんに委ねよう。ひとつだけ発問をして、あとは生徒に話し合わせた。生徒は活発に意見を交換し合い、読みを深めていった。
一人の生徒が言った。「前半は、どうせ…と、なげやりな感じだけど、最後は違う感じがします」なんと素直で単純な読解。でも、みんな頷いた。

授業中、話し合う生徒を見て、ほっとしたと言うか、なんだか胸がいっぱいだった。どうしてかよく分からない。存在の大きさや重さをはかるのは、点数や見た目ではない、職業や社会的地位でもなく、この世で生きた長さでもない。

せっかくだから授業の最後には中島みゆきの歌をギター弾きながら歌っちゃおうかなと、夜遅く中島みゆきの歌集をひっぱり出し、練習した。最初に歌ったのは「時代」。
「♪今はこ~んな~に…」と最初のフレーズを口にしたら涙が出てきた。真夜中の部屋で、泣きながら一人「時代」を弾き語る中年男性…。まったく絵にならない(-_-)

「時代」はまともに歌えないので、授業では「糸」を歌いました。

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