1月26日と2月9日、最終報告案についての意見交換会で、遺族からの質問に対し、検証委員長は「検証委員会の限界」という言葉を再三使用しました。「壁」と言う語もでてきました。
何が限界なのでしょう。
時間?予算?能力?それとも別の限界でしょうか?それを知りたいものです。
平成24年11月25日、検証委員会の立ち上げにあたって、事務局から重視する点が示されました。
たとえば以下の点です。
なぜきちんと判断して避難行動がとれなかったのか、それはマニュアルがきちんと定められていなかったからだというのであれば、では、なぜそのマニュアルがきちんとできていなかったのか。こういった「なぜ」を繰り返すことが非常に重要で、それによって背後にある原因を究めていくことができる。
現場にいた個人の判断の誤りなどにとどまらず、それをもたらした背後の要因、それは多くの場合は組織の問題であるが、そういった問題に踏み込まなければきちんとした対策はとれない。
様々な要因が重なり合って大きな事故・災害をもたらす。それらをすべて明らかにすることが検証として必要。
事故調査や検証の目的が責任追及でないからといって、結果として責任が明らかになるからという理由で報告書の筆を鈍らせてはいけない。結果として、真実を明らかにし、分析をすると、どこに責任があるか明らかになってしまう可能性がある。それを恐れて検証の調査の腕、あるいは報告書を執筆する筆を鈍らせてはならない。
「なぜ」を繰り返す
背後の要因に踏み込む
要因はすべて明らかにする
責任の所在が明らかになることを恐れない
その言葉に、ほんの少しでも期待した私たちが甘かったのでしょうか。
「限界」で済ませるくらいなら
はじめからこんなことを言わないでほしかった。
絶対伝わるはずだと思ってきました。
だって、学校であんなにたくさんの子どもの命が失われたのですから。
きっと伝わっていると思います。
でも、壁は動かなかった。
あの日に発車した列車に、2年後に乗り込んできた検証委員の先生方は
持てない荷物は窓から放り、あるいは車内に残したまま、
「最終報告」という駅で降りてゆく、そんな感じがします。