2011年3月11日は金曜日で、翌日が卒業式。女川第一中学校男子バレー部は、その翌日の13日に、練習試合を組んでいた。
眼下を町が流されていき、生徒を誘導して浄水場に向かいながら、頭のどこかで練習試合に行けなくなることを、相手校に連絡しなくちゃと頭のどこかで考えていた。その後、約2ヶ月間部活動はできなくなった。
新学期が始まっても、体育館は壊れて使えず、そのまま物資倉庫になった。町の体育館は避難所。校庭も地割れがあり使用できない。下校バスの時間は小学校に合わせるので、中学生は帰りの会が終わるとすぐバスに乗った。
部活動どころじゃないのは分かるのだが、部活動ぐらいやらせたかった。例年なら間近に迫った中総体に向けて、練習に熱が入る頃だもの。震災後は、空間、時間すべてが窮屈な日々が続いていた。
短時間でいいから、部活動の時間を作ろうということになった。
手元の記録によると、部活動の再開は5月2日、時間は15分。体操、ランニング、そして数分間のパスとレシーブ。場所は昇降口前、下はアスファルト。それでも生き生きボールを追いかけた。
短時間でいいから、部活動の時間を作ろうということになった。
手元の記録によると、部活動の再開は5月2日、時間は15分。体操、ランニング、そして数分間のパスとレシーブ。場所は昇降口前、下はアスファルト。それでも生き生きボールを追いかけた。
5月の連休に仙台のホームセンターに行って、物干しセットとロープとテント用のペグと栽培ネットを買ってきて、校庭の隅にバレーコートを作った。休み明けに生徒が驚く姿を思い浮かべながら…。
実際は「やったー!」とバンザイするほどのものではなく、嬉しいというより、「ここでバレーやるのかよ」という雰囲気もあり、微妙な空気だったのを覚えている。
ネットに絡まりボールが落ちてこなかったり、ボールについた砂が口に入ったり、珍プレーが続出。サーブやスパイクがラインをオーバーすると、相手チームは「アウト!」と喜ぶのだが、その後すぐに、遠くへ転がるボールを追いかけなければならないのもコントみたいでおもしろかった。天井サーブならぬ青空サーブの練習もさせた。果てしなく上に打ち上げるサーブだ。試合では使えないが。
ネットに絡まりボールが落ちてこなかったり、ボールについた砂が口に入ったり、珍プレーが続出。サーブやスパイクがラインをオーバーすると、相手チームは「アウト!」と喜ぶのだが、その後すぐに、遠くへ転がるボールを追いかけなければならないのもコントみたいでおもしろかった。天井サーブならぬ青空サーブの練習もさせた。果てしなく上に打ち上げるサーブだ。試合では使えないが。
バレーボールはもともと屋外スポーツだったのだ。バドミントン部に比べれば、ぜいたくは言えない。
場所や道具が不十分な上に、転校したメンバーもいて、戦力ダウンは必至だったが、スポーツや文化活動の意義を改めて感じた。
場所や道具が不十分な上に、転校したメンバーもいて、戦力ダウンは必至だったが、スポーツや文化活動の意義を改めて感じた。
みんなで一つのボールを追いかける。みんなで音を作る。今あるもので作る。今できることをやる。みんなで喜び、悔しがって、少しずつ強くなる。