仮設住宅そばのコンクリートに寝そべって宿題をやっている子供。向学館初期のホームページで紹介されていた写真だ。23年7月、向学館が作られた一つの理由がその写真に明確に示されている。段ボールで仕切られた避難所以外の空間と時間の提供である。
避難所が足りず、自衛隊のテントを借りて生活している家もたくさんあって、雨が降ったため教科書がふやけてしまった生徒もいた。下校後の子どもの居場所がないという状況をうけ、学校では5月中旬から教室を夜間開放する「まなび夜」という取り組みを始めたが、あくまで応急措置という感じだった。宿直の教員が交代で担当していた。
それに代わる感じで「向学館」はスタートした。運営は、熟議を仕切っていた若者集団、NPOカタリバ。主に首都圏で高校生のキャリア教育を展開しているとのこと。
下校後、どこにも行き場のなかった小中学生の居場所ができた。宿題をやるのもよし、本を読むのもよし。とにかく「いる所」だ。
ん、待てよ、「居場所」って何だ?
それに代わる感じで「向学館」はスタートした。運営は、熟議を仕切っていた若者集団、NPOカタリバ。主に首都圏で高校生のキャリア教育を展開しているとのこと。
下校後、どこにも行き場のなかった小中学生の居場所ができた。宿題をやるのもよし、本を読むのもよし。とにかく「いる所」だ。
ん、待てよ、「居場所」って何だ?
「居場所」で思い出す光景がある。
八割の家が流されたあの夜、高台の総合運動場に続々と町民が避難してきた。玄関前の焚き火の周りに人だかりができた。寒い夜だった。
「学校から燃やせるものはみんな持ってきて」ということで、新聞紙や段ボールはもちろん、未使用のコピー用紙も燃やした。(そのせいで、新学期にコピー用紙がほとんどなかった。)
八割の家が流されたあの夜、高台の総合運動場に続々と町民が避難してきた。玄関前の焚き火の周りに人だかりができた。寒い夜だった。
「学校から燃やせるものはみんな持ってきて」ということで、新聞紙や段ボールはもちろん、未使用のコピー用紙も燃やした。(そのせいで、新学期にコピー用紙がほとんどなかった。)
それからしばらく町内のあちこちで、人々が焚き火を囲む風景が見られるようになった。どんなにスペースや設備が揃っていても、求めるものがそこになければ、人はそこに行かないだろう。停電が続いたということもあるが、あの炎が提供していたのは、温度計で計れる暖かさだけではなかった気がする。
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